Novel
□扉を閉じて
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日課となった碓氷の保健室通い。
美咲は最近では碓氷が来ると、本来は保健委員がやるような雑務を手伝わせるようになっていた。
程よく手を抜きながら手伝う碓氷は、口では文句を言いつつも、美咲の側にいられることを喜んでいた。何しろ暫らくの期間、近寄ることができなかったのだ。
数ヵ月前、碓氷にキスされた美咲は、碓氷が保健室に来ることを禁止した。来ても直ぐに追い出し、自分と接触するのをとにかく避けまくった。
美咲からすれば当然の対応ではあったが、碓氷にしてみれば面白くない。声を交わすどころか姿を見ることすらできなくて、不満は募るばかりだった。
そんな時碓氷は体育の授業で怪我を負った。クラスメートが投げたボールが、壁に跳ね返り碓氷の手に直撃したのだ。
いつもの碓氷であれば避けるなり受け止めるなりできたはずだが、この時の彼は、美咲に逢えない苛立ちからか総てのことがどうでもよく、避けたりすることすらも面倒だと思っていた。その結果の突き指。
わざと怪我をしたわけではないが、碓氷はこの時ようやく正当な理由で保健室に行けることに気が付いた。
碓氷にとって保健室は美咲に逢える場所でしかなく、それ以外の理由で行くことなど、思い付きもしないことだった。
「センセー、怪我したー」
呑気な声で保健室にやって来た碓氷に、最初はやはり追い出そうとした美咲だったが、碓氷の怪我が本当なことに気付くと、渋々ながら手当てを始めた。
手早く包帯を巻き終えた美咲は碓氷に保健室を出て行くよう促す。
碓氷は素直に椅子から立ち上がったがドアへ向かうことはせず、ゆっくりと美咲に近付いた。思わず後退った美咲の腕を掴むと
「何で逃げるの?」
真っ直ぐ美咲の瞳を見つめて訊いてきた。
美咲はそれに答えることができず、視線を外しながら掴まれた腕を外そうとした。しかし碓氷はそれを許さず、さらに力を籠めて掴み直すと自分の方へ引き寄せる。
「答えてくれないなら、俺、毎日怪我してココに来るよ?」
「なっ?!」
冗談ともとれるが、本気の意志を感じた美咲は絶句し、碓氷の顔をまじまじと見つめた。碓氷も美咲を見つめ返す。
「わざと怪我をするようなことはするなっ」
「なら答えてよ。何で逃げるの?」
美咲は観念したかのように溜め息をつくと、やや俯きがちに告げる。
「お前が…キスなんかしてくるからだ。私は教師で…お前をそういう対象には…見られない。お前のその気持ちも一時の気の迷いだ。暫らくすれば…忘れる」
碓氷は美咲の言葉に反論しようとした。気の迷いじゃない、直ぐに忘れるようなものじゃない、と。
しかし、今の美咲に言っても届かないことが解ってしまい、言葉を失う。
「……。そーいうのがなければ…来てもいいの?」
「――“生徒”であることを忘れないのならな…」
ようやく紡いだ碓氷の台詞に、美咲は暫らく考えてから答えた。
碓氷は「分かった」とだけ言って美咲の腕を離した。心の中で“今は我慢しておく”と付け加えて。
「じゃあセンセー、また放課後v」
碓氷はそのままドアに向かい、包帯の巻かれた手をヒラヒラと振って出ていった。美咲はそんな碓氷の背中を見つめたまま、その場を動けないでいた。
教師の立場。そんなものが建て前であることなど、本当は美咲自身すでに気付いていた。
どこか捉えどころのない碓氷に対して、胡散臭さを感じはするものの、自分に示してくる想いが本気であることが解ってしまうがゆえに、距離を置かざるをえなかった。
あのまま近くにいられたら、いつかきっと流されてしまう…と、容易に想像できてしまったから。碓氷に忘れさせるためではなく、自分が立て直すために時間が必要だった。
年下の、ましてや生徒に、惹かれてしまうなどあってはならない。
そう、美咲は自分に言い聞かせていた。
そして、見かけ上は何も変わらないまま月日が過ぎた、ある日の休み時間。
次の移動教室のために渡り廊下を歩いていた碓氷は、向かい側の校舎に想い人の姿を見つけた。自然と目で追った相手は、和やかに微笑みながら誰かと話をしているようだった。
彼女の笑顔につられたように、自分の顔が緩んだのが分かる。同時に、彼女にあんな表情をさせる相手が気になった。
話相手は碓氷からは後頭部しか見えず、最初は誰だか分からなかったが、記憶の隅に引っ掛かるシルエットに、美咲が来る前にいた養護教諭だと気付いた。
相手が男じゃないのならいいか、と安堵した瞬間、碓氷の脳裏に美咲が赴任してきたときの挨拶の言葉が甦る。
――1年程しかいませんが、よろしくお願いします――
あの時は、すぐにいなくなるような教師に興味はなく(長くいても興味はなかったが)、大して気にしていなかったが、もうすぐ美咲と出会ってから1年が経とうとしていることに思い至り愕然とした。
経過していた1年という時間。
休んでいた前任の登場。
それらが示すことは――…
導きだされた結論に碓氷は思考が停止した。