Novel

□ふわふわ
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カラン…とグラスの中で氷が軽やかな音を立てる。微かな甘みを含んだスモーキーな香りの液体は、ただ眠りを誘うためのもの。この言いようのない疲労感を忘れるために早く眠りにつきたいだけ。
時間はまだ18時になる前。一つ溜め息をついてまた一口琥珀の液体を口に含んだとき携帯が鳴った。彼女からだ。

『あ。いま家か?』
「そうだけど…どうしたの?」
『この間の書類が入った封筒忘れていってないかと思って』
「封筒?……ああ、あるね」

話しながら部屋の中を見渡すと、テーブルの下にA4サイズの茶封筒が見えた。手に取り中を確認すると確かにこの前彼女がまとめていた書類が入っていた。

『やっぱり。これから取りに行っても大丈夫か?』
「ん。いいよ」
『じゃあ後で』

簡素な短い通話を終えた携帯をテーブルに放り出しその横に封筒を置いた。
これから彼女が来る。
彼女に逢える、それだけのことに先程まで感じていたささくれた感情が柔らかさを取り戻し、自然と口許には笑みが浮かぶ。
程なくしてインターホンが鳴り彼女を迎え入れる。ドアが閉まったのを確認してからキスを一つ。

「っ…おまっいきなりっ…――? もしかして酔ってる?」

酒の味…と少し眉根を寄せて、口に指をあて呟く君を見て沸き上がる悪戯心。

「んー飲んではいたけどまだ酔ってはいないよ――美咲も飲む?」
「…少し、なら。度数は高そうだけど味は悪くないな、これ…」

予想外の返事に思わず彼女を凝視する。もしかして…

「ん? 何だ?」
「…いや…何でもない。強いのが嫌なら薄めに作ってあげるよ。炭酸割りでいい?」
「あぁ、任せる」

ソファーに座り、また忘れないように、と早々に封筒をバッグに収めた彼女にグラスを渡して、隣に座りながら先程の疑問を投げ掛ける。

「今まで一緒に飲んだことなかったけど…飲めるんだ?」
「あぁ…たまにさくら達に付き合うぐらいだけどな」

昔、催眠術にかかり酔った状態の姿を見ていたせいもあって酒に弱いと思っていたがどうも違うらしい。

「高校の時、叶に催眠術をかけられて酔っ払ったことがあっただろ? 記憶にはないけどああはなりたくないから、あんまり量は飲まないようにはしてる」

グラスに口を付けながら美咲が続けた。あの時の彼女には催眠状態の間の記憶はなかったが、俺が携帯で撮っていた映像を観ていたから気を付けていたんだろう。
俺としてもあんな状態の彼女を他の奴に見られたくはなかった、というより正確には他の奴に絡んでほしくなかったからほっと胸を撫で下ろした。

「俺と一緒のときぐらい飲んでも良かったのに」

酔ってもちゃんと介抱するよ? にっこり笑って言ったのだが、遠慮する、とにべもなく断られた。

「そんなに酔うほど飲みたいわけじゃないから、いい。どっちかって言うと――2,3杯飲んだ辺りで止めておいたほうがいいんだ。そのほうが気分がふわふわして楽しい」
「ふわふわ?」
「そう。ふわふわして嬉しいような楽しい気分になるんだ」

そう言った美咲は丁度2杯目を飲み終えたところで、頬がうっすらと色付いていた。いつもは少しキツさが目立つ目許も優しさを増し柔らかく微笑んでいる。本人が言うところの“ふわふわ”した状態――つまりはほろ酔いの状態なのだろう。

「じゃあお代わりはどうする?」

空いたグラスを掲げて見せると、少し考えた後で水がいいと答えた。

「薄くしてくれたんだろうけど、やっぱりちょっと強かったみたいだ」

ぽすっと俺の肩に寄りかかり息を吐きながら片手の甲を額に当て目を閉じる。こんな風に甘えてくるなんて…やっぱり俺が居ないときには飲まさないほうがいいかもしれない……

「…――それより…お前何かあったのか?」

あんな時間から飲んでるなんて…と、気遣わしげに見上げてくる美咲の表情からは俺が独り飲んでいた理由に気付いている向きが窺える。ホントこういうことには鋭いんだからなぁ…と内心苦笑したが、俺のことを想ってくれていることが嬉しくて、少しだけ本音をこぼす。

「んー? ここ最近寝付きが良くなくて…だから睡眠導入剤代わりに…ね」
「それにしたって、早過ぎないか?」
「早いほうが長く眠れるじゃん。明日は休みだし、気にせずに飲めるかなーって」
「あんまり感心はしないが……ほどほどに、な」

困ったように笑いながら本当の理由を訊かないでくれる。きっと薄々気が付いているんだろうけれど今はまだ言えないから、もう少しの間見逃して。あと少しでカタが付くから、そうしたら――
全てが終わってから話したらきっと怒るだろうね、どうしてと。きっと完全には無関係ではいられないだろうけど、でもできることなら美咲には家とは係わりを持たせたくない。家とのことを知ったら絶対君は“頑張って”しまうだろうから。だからこれは俺の我儘。
いつものように少しからかう態度のなかにほんの少しだけ本音を混ぜる。

「本当は美咲が居てくれれば一番いいんだけどね〜。美咲を抱いてるとよく眠れるから」

言いながら美咲を抱き寄せる。水を飲んでいた彼女はグラスの中身が零れる! と文句を言ったけれど腕の中から逃れようとはしなかった。

「―…くっついていると何だか安心して…よく眠れるのは…解かる…」

赤くなっていく顔を隠すように俯いて段々小さい声になっていく彼女の言葉。同じように感じていたことが無性に嬉しくて、ちゅっと頬に口付けて抱いた腕に力を込めた。

「じゃあ…今夜は泊まっていって?」
「――………ん……」

消え入りそうな声で返事をした彼女を抱いたまま瞳を閉じる。腕の中の美咲の体温と香りに酔って俺もふわふわした気分になっていった――


end.(2009.08.01)

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