Novel

□ただ一度だけ会いたくて
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高校3年の卒業を目前にした2月の終わり。
碓氷が、姿を消した。

正確には日本を離れた、と言うべきかもしれないが実際のところは判らない。
“家”のある英国に行ったかもしれないし、日本の“碓氷家”に戻ったかもしれない。
もしかしたら両方を行き来している可能性もなくはない。
いずれにせよ、美咲の前から居なくなったことは確かだった。

「“向こう側”に行ってみようと思う」

その冬最後の雪が降った日。
美咲の家を訪れた碓氷は、そう、宣言した。
強引なやり方はなくなったものの、碓氷への“家”からのアプローチは相変わらず続いていて、卒業という区切りが近くなってからはしつこさを増していた。

「口惜しいけれど今はまだ…抗い切れる力がないからね…。どうせなら向こうの中で力をつけて、その力で内側から攻撃してみようかと思って」

淡々と話す碓氷の表情はとても静かで、美咲の瞳には、それがなおさら決意の強さを表わしているように映る。

「目の前のことだけに囚われていたら、その先が見えなくなる。本当に“家”から自由になるために…ちょっと頑張ってくるよ」

薄く笑う碓氷の表情は儚げで、それでも決意のほどが痛いくらいに美咲に伝わってきた。
碓氷の言うことも判る。
いくら反発してみても今の自分達は大した力も持たないコドモでしかなく、できることも限られている。
感情だけで突っ走り、振り切れる相手ではないことは美咲もよく理解していた。
理解してはいても…理性と感情は別物で。心の底では碓氷が自分の隣から居なくなることを嫌がっていた。
けれども美咲には「…そうか…」と一言を返すしかできなかった。

「…ただ…何年かかるか判らないし、監視もされるだろうからあまり連絡もできないと思う。だから…待っててなんて言えない。俺のことは忘れていい」

「なっ…!」

碓氷の言葉にカッとなった美咲は、相手の胸倉を掴んで「見縊んな!!」と怒鳴りつけた。
碓氷は瞳を見開いて驚いたが、そんな美咲を見て嬉しそうに笑うと、襟元を掴む美咲の両手に自分のそれを重ねて強く握る。
そして浮かべた笑みを愉し気なものへと変えて美咲の耳許に唇を寄せた。

「忘れてても…戻ってきたら思い出させてあげるし、また俺のこと好きにならせてあげるから…安心してv」

「〜〜みっ耳許で囁くな! アホ碓氷っ!!」

碓氷は真っ赤になった美咲の頬に口付けを落とし、そのまま滑らせるように唇を移動させて美咲の瞳の端に滲んだ涙を拭う。
額同士を触れ合わせて暫らく見詰め合ったあと2人は最後のキスを交わした。

「じゃあ……待ってて? 準備ができたら迎えに来るから…その時は手伝ってくれる?」

「―…仕方ないから、助けてやる」

約束を残せばそれは美咲を縛ることになる。
なによりも美咲には自由でいて欲しかった碓氷が、本音を隠して言った言葉は当の本人から拒否された。
鮎沢が望んでくれるのなら…―
頼りないものでもお互いを繋いでいられる…心の拠り所にしていられる約束を残して碓氷は居なくなった。

あれから碓氷の言葉どおり、音信不通になって数年が過ぎた。
電話はおろかメールすら届かない日々。
淋しくて辛くもあったが、忙しい毎日を送るなかでやがてそれにも慣れて薄れていった。
忙しさを理由にして、敢えて淋しさを感じないようにしていたのかも知れない。
それでも、決定的な連絡もないうちは自分から諦めてしまうことだけはしない、と決心していた美咲は、碓氷からの連絡を待ち続けていた。

そんな9月のある日。
その日の予定を終え夜遅く帰宅した美咲は、郵便受けに葉書が入っているのを見つけた。差出人の記入はなく、印刷された宛名の名前が自分であることを確認して裏返してみる。
それは月下美人の写真が印刷されたポストカードで、余白部分に手書きで日付と時間、そしてある場所への略図が描かれていた。
美咲は僅かに瞳を見開いて言葉もなくじっと葉書を見つめる。
見覚えのある筆跡にじわりと滲んできた視界に気付いて、慌ててやや乱暴に目許を拭う。
しかし中々クリアにならない視界に「…阿呆…」とポツリ呟くと葉書を胸に抱き締めた。

そして指示された日。美咲は葉書に書かれていた場所に居た。そこは以前、碓氷に連れてこられた植物園だった。
葉書に印刷されていた月下美人。
この植物園は月下美人の株を数多く有しており、それを売りの1つにしている。
月下美人の花期は6から11月までと長いが、開花はやはり暑い時季に集中する。その間夜間営業をしているのだと、あの時碓氷に説明された。
名前を聞いたことはあったが実物を見たのは初めてで、それに、開花の瞬間なんてものを見たのも初めてだったな…と、園内のベンチに座った美咲が懐かしく回想する。
美咲が座ったベンチは、これから咲かせるであろう大きな蕾をいくつか携えた月下美人の横に誂えてあったもので、自然と美咲の視線は蕾に向かう。
時間的にまだ咲くはずはないのだが、もしかして何か動きがあるのではないか…と期待しながら見ていると、ふと鼻先にコーヒーの香りが届く。
視線を向けると目の前にあの時と同じように紙コップを両手に持った碓氷が立っていた。

「久し振り」

優しく笑う表情は昔のまま。しかし、子供っぽさが抜けて美咲の記憶にあるそれよりも大人びた碓氷の姿に、美咲は一瞬言葉を失う。
だがすぐに微笑み返した。

「やっぱりお前だったか」

「気付いてたんだ?」

「まぁ…なんとなく…だけどな」

美咲にコーヒーを渡した碓氷が隣に座った。
「あれから今まで……どうしてた?」とお互いの今までをぽつりぽつりと語り合う。
碓氷は宣言どおり着実に力をつけていたようで、少し得意気に「味方もできたよ。最近は我儘もできるようになった」と告げた。だから今日来られたんだ、と続いた言葉に美咲は泣きそうになる。 

何年か振りに逢えたこと。声が聴けたこと。姿を見られたこと。手を伸ばせば触れられる距離に居ること。それらの全てが嬉しいものであるのに、美咲の心には未だに拭い切れない不安がある。
碓氷は“家”に対抗するために、敢えて向こうで力をつけようとした。
碓氷のことだからその辺は美咲も心配していなかったのだが、力をつけたら益々向こうは手離さないのではないだろうか、そしてもしそうなったら“本当に”離れることになるのではないか…という不安は、常に美咲の心に付き纏っていた。
あの時の碓氷の言葉を疑う訳じゃない。
信じていない訳じゃない。
それでも、状況が変われば変化する気持ちもあることを知っている美咲には、消し切れない考えだった。
いつ「やっぱり駄目そうだ。ごめん」と言われるのではないかと、美咲は内心ビクついていた。
碓氷はそんな美咲の心情に気が付いているのかいないのか、先程と変わらない調子で話し続ける。


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