宝物

□貴方に甘える(2009.12.06)
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外来の受付け時間をとうに過ぎ、担当を終えた美咲は明日のスケジュールを思い出しながら廊下を歩いていた。
今日はこの後医局に戻り、報告と明日の確認をすればいいはず…あぁ平野さんの転院のための紹介状を書かないとならないなと考えている途中で、同期でもある脳外科医の碓氷に呼び止められた。

「明日の手術、俺が入ることになったから」

「野方先生が執刀されるはずでは?」

患者の主治医でもある野方医師は、堅実で実績も充分ある有能な脳外科医だ。難易度の高い明日の手術だが、野方医師なら特に安心できる。
その手術にアシストで入ることは、循環器系外科医である自分の後学のためにもなると思っていたのだが。

「野方先生は学会に行くことになってね。大学から呼ばれたみたい」

派閥に組してると面倒くさそうだよねぇ…碓氷はニヤリと笑って続ける。

「で、打ち合わせをしたいんだけど。明日アシストに入るんだよね?」

「それなら医局に…」

資料がまとめてあるからと言いながら、移動しようと踵を返そうとしたが、言葉の途中で腰を攫われ抱き寄せられた。

「…俺の部屋で…」

耳許で囁かれて心臓が跳ね上がった。いつ人が通るかもしれない廊下で怒鳴るわけにもいかず、睨み付けながら胸を押しやる。
顔が赤くなっているのが自分でも判った。何年経っても相手の突然の行為に慣れることはない…

「今日はもう上がりでしょ? 通用口で待ってるから」

早くね、とクスクスと笑いながら軽くキスを落として離れていく相手を何も言えずに見送る。角を曲がってその姿が見えなくなるまで動けずにいた私は、顔の赤みがなくなるまでさらにその場に留まっていた。

せめてもの仕返しに、暫らく待たせてやろうかと考えたが、明日のことを思うとそうもいかない。
野方医師には経験の差で及ばないが、碓氷も実力の高い医師だ。明日の手術の執刀を努めるというのはそういうこと。
アシストをする以上、煩わせるようなことはできない。
先程見送った碓氷の姿が脳裏に浮かべば、少し弛み始める頬。慌てて引き締めると医局に戻り、手早く残りの仕事を終えて帰る準備を始めた。

‡‡‡‡‡

通用口へ向かうと碓氷の姿が見えた。私に気づくと片手をあげ笑顔を向ける。
私だけに見せる笑顔だ。
他の誰にも見せない笑顔を私にだけに向ける。その笑顔が昔から好きだった。

「今日は…このまま大丈夫?」

私はコクリと頷いた。

「そう…」

私の返事に碓氷は少し照れたような表情を見せた。

二人は碓氷の車がある駐車場まで歩いた。

「美咲が泊まるなんて久しぶりだね」

「う、打ち合わせに行くんだからな!明日は大事な手術だってあるし…」

「そうだね。あまり無理はさせないつもりだけど…約束出来ない」

ニヤリと碓氷が笑った。

こんな事を言いながら手術に影響するような事は決してしない。脳外科医としての腕は確かなもので他の大きな病院からの誘いもある。先日もそんな話しがあったようだ。決して悪い話しではなかったはず…。

車に乗り碓氷が運転する姿を見つめながら考えていた。

私のせいで碓氷は…

「ねぇ。もしかしてこの前の移動の件断ったの気にしてる?」

私は心を見透かされたようで驚いた。

「俺は今の病院を気に入ってるし…美咲が気にする事はないよ」

碓氷は前を見たまま優しく言った。

「母さんの手術…まだ無理みたいだな…」

「そうだね…。でも俺が治すから心配しないで」

「ああ…。わかってる」

母さんは脳に腫瘍があり手術しなくてはいけなかったが今のままでは体力がもたない。今直ぐに手術しなくてはいけない程切羽詰まった病状ではないが碓氷は自分で治すと私と交わした約束を守るために動けないのだ。今の病院なら碓氷に手術してもらえるが他の病院へ移ればどうなるかわからない。
私は碓氷の優しさに甘えているのだ。
母さんの事も…。
離れたくないという私の我が儘も…。
この笑顔を手放せない私は今も昔も碓氷の優しさに甘えているのだ。

「碓氷…」

「何?」

「ありがとう…いつもそばにいてくれて…」

ふわりと笑う碓氷にまた私は甘えてしまう。


End

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